最近とても良い話を聞く機会に恵まれた。ある方との雑談の中で聞いた言葉なのだけど、最近になって強く意識していることと妙に繋がって「ああ、そういうことか。」と、渇いた砂が水を吸い込むように納得できた。(誤解のないように記しておくが、「その人」が指すのは、もちろんクライアント側の立場にいる人のことで、決して設計者のことを指すものではない。)
最近になって強く意識するようになったこととは、それがどう在るべきなのかというイメージ。恐らく建築を例えにするのが伝わり易いと思う。たとえば山奥の大自然に建つ寺院、最近訪れた中でも例として適しているのはたぶん浄瑠璃寺(上写真)。どのような行為が、どのような場所で行われるのかを見据えて、その空間がどのようにその場所に在るべきかを問う態度と言えば良いのだろうか。浄瑠璃寺は旺盛な樹に囲まれた山深い地に、ふっと広がる池泉式回遊庭園、それに厳格な軸線を配す緊張感が、山深い場所に建つ寺院という聖域を際立たせている。この場所にどのように寺院があるべきかという問いに対して、妙に納得できる回答がある。場の在り方というよりその存在の在り方——その存在がどのような存在で在るのか——を示し、感じられるものになる。それが、昨今で最も成功している例で言えばappleのデザイン戦略からも見えるように、その人/組織という存在を作り上げるデザインの力だと強く認識するようになった。
とにかく変わっている、とにかく目立つ、とにかく破壊する、というようなデザイン、確かにクライアントの要望または一つの可能性を指し示すことを目的として、それを適えているのだろう。でも、言いようのない違和感を感じている僕がいる。何かが「違う」と思ってしまう。その違和感は何だろう、とずっと感じてきた疑問の答えが「その人/組織の20年後を作る」ものかどうか、という課題に見えてくるように思える。
細かな状況にもよるけれど、穏やかな海岸に建つ美術館の在り方として、「ガラスの高層ビルが良い」と言い切れる人はなかなかいないだろう。なぜそう感じるのかは別の問題として、そのような感覚をより具体的に感じてイメージすること、その場、その状況、その在り方において、どう在るべきかを指し示すことがデザインなのだろう。デザインの語源は諸説あるが、「de-sign:signたらしめること/指し示すこと」が有力な説の一つであることを思い起こさせる。
その存在の在り方を指し示すこと、その言い方を少し変えると「その人/組織の20年後を作ること」となるのだと思う。10年だと一時と言える程度に短過ぎて、50年では実感できない。もちろん数多くの寺院のように数百年後までの在り方まで指し示すことが出来れば、それは凄いことなのだろうけれど、僕が実感できる範囲より少し飛躍し過ぎている。むしろ「その人/組織の20年後を作ること」を通じて、本当にそれが的確であれば数百年後まで残る可能性がある、と言った方が僕にとっては現実的に捉えることができるのだけど。
デザインに限らず選択を迷ってしまう場合がある。「どう在るべきか?」ということに対して、最良の回答を見つけようとするのは当然なのだろうけれど、「20年後はどう在って欲しいか?」という問いを抱くように考えると、より現実的なイメージが浮かぶのではないだろうか。そう考えることで、少なくともde-signを業としている僕自身にも、少しは目指すべき展望が見えてくる気がしている。