南禅寺清流亭にて「日本的なること」と題された民族藝術学会の特別例会に参加させていただいた。鷲田清一氏、喜多俊之氏、成実弘至氏の三氏がそれぞれ理論、実践、現象の側面から「日本的なること」を眺めようとするような構成。定義できないものに立ち向かうというところで、やはりなかなか難しいテーマであるようにも思うが、日本で活動する我々にとっては常に考えさせられるテーマでもある。
単一の空間ではなく、複数の空間の存在を感じさせること。日本的な空間の特徴の一つに、境界を超えてその向こうにどこまでも空間が広がっているような感覚を受けることがある。そういうとなんだか空間の把握が容易でないように思うけれど、しかしいろいろな日本の空間を見ていると複雑な空間でありながらそこから沸き上がる感情としては簡明という印象を受ける。日本の空間に見られる奥ゆかしさと簡明の共存という両義的空間の感覚、それは日本に固有の文化性だと思うし、この感覚を基にカタチを作れるのは世界でも日本人、もしかするとアジア人、しかいないだろう。それは日本人が心地よいとしてきたことだからこそそこにあるのだろうし、日本の気候風土に合う文化なのだろう。
少し前にスペインの建築家に、日本的な空間を西洋の視点から見るとどう感じるのかと思い、感想を聞いてみたことがある。それほど期待せずに聞いてみたのだけど、内側から見るよりもとても冷静な感想を聞く機会を持てることができたのは幸運だったように思う。それに僕の解釈を加えて簡単に説明すると、西洋の建築はモニュメンタルでオブジェクティブだが、日本(アジア)の建築は——この場合、建築というより空間という方が正確かも知れない——それぞれの要素が音楽のように響き合って関係を作り、そのことによって「環境」を創造しているように感じる、と。それぞれの要素が響き合うということは、まずそれぞれの要素を独立したものと認めつつその特徴や性質を捉えることが前提になっているように思う。そこに物に魂を込め、神を宿らせるアニミズムと一神教の境を感じたわけだけど、日本人の感性を考える上でアニミズムはいろいろ整理ができるなかなか便利な考え方であるのは確かのようだ。人も物も特別な「主」ではなく、常にその中の関係に埋もれながらも振る舞い続けるものであり、その振る舞い方を大切にしていると考えると、少なくとも僕はいろいろとすんなり納得できるのだけど。
これだけで全てを説明できるわけではないだろうし、断言などとてもできそうにもない。しかし少なくともこのような文化性は消しようもなく、日本人のどこか奥底に引き継がれているように感じる。その日本の文化にどっぷり浸かって過ごしてきた我々は、どうやってもその文化からは抜け出せないように思う。無理に抜け出そうとしても無理矢理な、ちぐはぐな状態を生み出すことにならないか。いや、そもそも幼い頃から身体に刻まれてきた感覚を消す、などということは到底できそうにもないことだ。どうやら「日本的なること」は我々の身体に潜んでいそうだ。
そして最も重要なことは、無理にオランダ人の面の感覚、ドイツ人の厳格さを真似るよりも、その身に染み込んでいる感覚でカタチを捉えること、そのずぶとく強い個性を持った文化性——地域性と言っても良いが、それが世界にも通用するものにもなり得るのものだとも思う。
ふと禅の言葉を思い出す‥‥随処作主。全てはそれぞれ自身の内にある。そして理論からカタチが生まれることはない。つまり我々は良いと感じられるものや他の文化との差異を道具として、そしてほんの少しの理論を研磨剤に、それを身体から削りだそうと必死に努力しているのかもしれない。